逍遥記

自由気ままに、好きなことをし、感じたままに綴る、それがこの逍遥記です。

2011年4月

2011年04月08日

安心できる場所はどこにもない!
いよいよボランティアとして被災地に向かう日程が近づいて来ました。11日に佐世保を出発し東京に入り、そこで一泊、翌日早朝から宮城県の方へ向かい、15日東京に帰ってくる予定です。
昨日は震度6強の地震があり現地はまだまだ予断を許さない状況に加え、せっかく復旧していたライフラインの被害が気になるところです。
それからやはり一番気にかかるのは原発。こちらもいつどうなってもおかしくない状況。

そんな中、わざわざ危険を冒してまでと思われるかも知れませんが自分の中の何かが被災地をこの身をもって体験しなければと感じるのです。理由などありません、ただそう感じるだけです。

今回の震災ではこれまでうすうす感じつつも見知らぬ顔をしていた問題が一気に押し寄せてきたと思います。原発や電気の問題はもう避けては通れない問題になってきています。経済発展や利便性ばかり追求してきた結果が、命を危機に晒してきたという事実。しかし計画停電でもわかるように電気がなければ今の世の中が成り立たないという事実。
水や食という生命活動にもっとも基本となる部分の安全性に対する問題。
全ては人が自ら作り出した問題です。
自然災害からは何度でも復興できますが、人災からの復興は困難です。

放射能の影響はさほどない佐世保でも農薬の影響はかなり深刻です。満開の桜にはわずかにセイヨウミツバチが数匹見られるだけでニホンミツバチや他の昆虫は全く見つける事ができません。草むらにバッタがいません。蝶もほとんど見かけません。アリでさえもどこにいったのやら・・・。
このような現状を見ると今や日本のどこにも安心できる場所などないのだと思います。

まぁあれこれ考えても先に進めないのでとりあえず今できる事をしていきたいと思います。

2011年04月20日

必要なもの
無事被災地での活動を終えて佐世保に帰ってきました。思うようにいかない事ばかりでほんのわずかしかお手伝いできませんでしたが現地からはその何倍ものものを得てきたように思います。

まず11日の月曜日に長崎空港から羽田空港へ。羽田上空から東京の街を見るとその巨大なコンクリートの塊の街にまるで外国にでも来たかのような感覚になり、その周りの海に目をやると赤潮が発生しており何とも言えないショックを受けました。初めて見る赤潮は本当に赤く海を漂っており、単なる水質の汚さを超えて不気味な感じがしました。
空港に到着後引き継ぎの場所である日本薬剤師会へ。引き継ぎの時間までだいぶあったので荷物を置かせてもらい近くをブラブラ。新宿御苑付近をあてもなく歩いていると急に雨が降ってきてしばらく雨宿りにと本屋に入って時間を潰していると、急にゴトゴトと音がし、全体が大きく揺れだし棚の本がバタバタ横に動き出しました。もうすっかり地震に慣れた店員さんが危ないので棚から離れて下さいとお客さんに呼びかけて全員が通路の真ん中でじっと収まるまで待つこと1分近く。ようやく収まった地震にホッと一息ついてもう一度薬剤師会へ。ちなみにこの時の震度は4だったようで震源地の福島は震度6だったようです。

引き継ぎでは前の班から現地の状況を聞きながら自分が行く場所の確認。今回の九州・山口の班は全員で14名でそれをさらに石巻・気仙沼・そして僕の行ってきた南三陸の3つのグループに分かれて活動してきました。
翌日はさっそく各グループに分かれて車に乗り込み、いざ宮城の薬剤師会へ。南三陸グループの車はバンで、座席の座り心地の悪さに加え、強風に車があおられて真っ直ぐ走れないという代物。
それでも全員で運転を交代しながら無事宮城県薬剤師会へ到着。

途中の高速は一応全て通行できるものの凸凹が多く、決して安全とは言えない道で福島辺りからは周辺の家の屋根にブルーシートがかかっているのがちらほら見られました。宮城の薬剤師会館の周辺は表立った被害は全く見られず、お店は普通に開いており本当に地震があったのだろうか?と思ってしまうような状況でした。
しかしここから派遣先である南三陸へ向かう途中の石巻では高速道路を挟んで左側は全くなにもないのに右側は海水と泥と瓦礫で見るも無残な姿でほんのわずかの差でここまで違うのかと驚かされました。

南三陸はどうだったというと、ここはまるで戦争で爆撃でもされたかのような無残な姿でハッキリここまで津波が押し寄せた事がわかり、山の中に船があったり、高い建物の屋上に車が止まっていたり、・・・、辺り一面が瓦礫の山でもうどう手を付けてよいのやらといった状態でした。

南三陸に入ってまず感じたのがマスク越しに感じる塩気。最初は気のせいかと思っていましたがどうやら埃の中に塩分が混じっており、マスクをしていても目に見えない粒子が口に入ってきていたのだと思います。ただ予想していた臭いはマスクをしていればそれほど感じる事はありませんでした。ただし実際の活動をした志津川ベイサイドアリーナは別ですが・・・。

僕たちのグループの活動は南三陸の避難所の拠点で最大の避難所である志津川ベイサイドアリーナでの調剤業務を中心に、避難所を巡回している各医療グループが不足している医薬品の払い出し、さらにベイサイドアリーナ内の衛生環境の整備といった事で末端の小さな避難所へは行くことはありませんでした。

ベイサイドアリーナに着いてまず感じたのは物資の充実ぶりです。医薬品は普通の薬局以上に揃い、体育館には所狭しと支援物資が山積みされておりこれがなくて困るといったものはほとんどありませんでした。マンパワーもかなり充実しており、医療グループもTMAT、JMAT、DMAT、HUMA等多くのグループが派遣されてきており、医師も余るほどで、10数名いた僕たち薬剤師も調剤業務だけなら6名もいれば十分なぐらいで震災から1か月経ちだいぶ状況が変わってきているのがわかりました。ただ余裕があるからと言ってもやることは山ほどあるので沢山いるにこした事はないのですが・・・。

石巻や気仙沼に比べ最もライフラインの復旧が遅れている南三陸では未だに電気・ガス・水道全てが使えず、電気だけがようやく僕たちが帰った日の夕方から通ったという状況でした。まぁ電気に関しては自家発電のおかげで非常灯は常時点いており、夜の6時から8時までは全部の明かりが点き、さほど不自由を感じる事はありませんでした。ガスも特に使う事がないので問題ありませんでしたが何より不自由を感じたのは水でした。
飲み水はペットボトルの水等が豊富にあり困らないのですが、手洗いや洗濯に使う水がなく、何よりトイレに流す水がないのです。仮設トイレの衛生環境は劣悪でこれがベイサイドアリーナで今最も重要な問題の一つなのです。不衛生なトイレはノロウイルスをはじめとする様々な感染症を引き起こす原因となるばかりでなく、排便を我慢するために起こる便秘等の胃腸障害、さらにそこから繋がる精神疾患。全ては水がないために・・・。
避難所に行くと日頃あって当たり前のものがどれほど健康維持に役立っているかがよくわかります。水もそうですが空気もその一つでした。被災地の空気は見えない粉塵で充満しておりマスクをしていても防ぎきれない微量の粉塵が身体に入ってきます。あとでニュースで見ましたが被災地では喘息が3〜5倍、さらに様々な病気が増えているとの事です。僕が行っていた時もノロウイルスが蔓延しており花粉症も普段より酷くなっているような状態で破傷風予防の注射剤が処方されたりもしていました。そして古い建物の多い被災地ではアスベストが懸念されます。

水・空気だけではありません。空間もありません。子供たちが遊びたくても遊べるスペースがありません。僕が唯一子供が身体を動かして遊んでいるのを見たのは夜の2時間だけ電気が点く間、ベイサイドアリーナの入り口前の僅かなスペースで4人の子供が2組に分かれてリレーをしている姿でした。日中は人の出入りが激しく、他の場所は全て人や物で埋まっており思いっきり身体を動かせるスペースがないのです。しかも外はどこも埃がひどい・・・。
人にはそれぞれ占有空間が必要なのです。いくら栄養のある食事を与えられてもそこに空間がなければ生きられないのです。あるマウスを使った実験ではある一定の空間にエサを十分に与えてどこまで増えるのかという事を調べた結果、ある一定数以上はどうやっても増えなかったそうです。ちなみに人が密集して生活している団地やマンションでは他の場所に比べて自殺率が高いといったデータもあるそうです。
何にせよ一人一人にもっと空間が必要なのは明らかです。

これら以外にも必要なものは多々ありましたが少し長くなったので今回はここまでにして次回に続きを書こうと思います。

2011年04月22日

被災者の生活
では前回の続きを書いていこうと思います。僕が滞在していた南三陸のベイサイドアリーナはかなり大きなスポーツ施設で中央の大きな体育館は物資が品目ごとに所狭しと並べられており、遺体安置所、火葬相談所、等があり食事もここで作られています。被災者は通路に段ボール等で敷居を作って寝ているのですが若い人などは寒い中車の中で寝ておられる方も沢山おられました。

食事は3食ちゃんと出るのですがジャムサンドにチョコにジュースといったものやお茶碗2/3ほどのご飯に少量のおかずといったものなど量的にも質的にも不十分なものでした。特に栄養の偏りは長期化するにつれて身体の変調を起こす原因になるので早い段階で改善してもらいたいものです。

トイレは仮設トイレなのでどうしても不衛生になりがちでトイレを我慢するあまりに便秘になったり、その他の身体の異常が現れる方が多くおられました。
断水中で水は自衛隊が持ってきてくれる給水車の水しかなく飲料には問題がないものの手洗いや衣服の洗濯用の水はなくこちらも不衛生。唯一の救いは熊本の自衛隊が用意してくれていたその名も「火の国の湯」というお風呂。これは被災者の疲れた体を癒すと共に精神的にも癒してくれる非常にありがたいものでした。

こういった環境の中で蔓延していたのがノロウイルス。嘔吐・下痢を主症状とするノロウイルスは接触感染で拡大するもので手洗いやこまめな清掃で予防できるのですがベイサイドアリーナでは手洗いができず、清掃も不十分。そして何より埃がひどい為に空気の入れ替えができないというのが感染を拡大させていた要因でした。僕たち薬剤師は感染症専門の看護師さん等と協力しながら徹底した消毒を行い帰るころにはようやく縮小しはじめたといった状況でした。

救護所を訪れる患者さんでもっとも多かったのが胃腸障害であとは風邪症状や花粉症、持病の慢性疾患といったものでしたが中には物資の運搬作業中の怪我や毒キノコに中ったといったものなどもあり、出血を伴う怪我をされた方には破傷風トキソイド(破傷風予防)の処方もありました。
被災者のみならずボランティアの人の怪我や病気も増えている感じでした。
恐らく今後は精神疾患がもっと増えてくるような気がします。

今後の健康を考えると身体を動かす事が必須になってくると思うのですが現在の状況では全く身体を動かす事が出来ない状況です。何といってもスペースがないのが問題ですがその場でもできるような運動を行ってくれる人がいないのが問題です。若い人などで身体が十分に動く人はボランティアで身体を動かせば良いのですがお年寄りで何もする事がなく寝たきりに近い状態になっている人たちにも楽しんでできる運動を行っていく必要があると思います。

ボランティアも最低限の手伝いだけにしてできるだけ地元の人が仕事をできる場を作る事が今後復興していく上で欠かせない事だと思います。
例えば医療の場合、地元の診療所や病院が再開した場合、無料で行う救護所の医療は地元の保険診療の邪魔になりかねません。できるだけ早い段階で縮小、廃止していく必要があります。
物資の運搬や仕分け、食事といった仕事もできる限り地元の人で行ってもらえるようにしなければなりません。

地元のボランティアの人たちは本当に生き生きと働いており、ボランティアで行ったこちらの身体の心配までしてくれどちらがボランティアなのかわからないぐらいでした。自分も今回活動して感じたのですが自らの意思で何の見返りも求めずに働くというのは本当に楽しい事なのです。
もし震災がなければ学生生活を謳歌していたであろう学生さん達が大人に交じって笑い声をあげながら楽しそうに働いている姿を何度も目にしました。
彼らを見ていると本来人は身体を動かし働く事が好きなのだと改めて感じました。

今後どのように復興していくのかわかりませんが今回の震災がよりよい日本へと変化するきっかけにすることが残された人間の宿命なのだと思います。

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