逍遥記

自由気ままに、好きなことをし、感じたままに綴る、それがこの逍遥記です。

2011年6月

2011年06月01日

”動”中”整”あり
「動中静あり」、「静中動あり」という言葉は武術においてよく言われる言葉なのですが最近この言葉の意味が様々な意味を含んでいたことにようやく気付き始めました。

「静中動あり」の中には外見上止まって見えていても、内部は動いている状態で常に動き出しが可能な状態という意味が含まれています。
逆に「動中静あり」の中には外見上は動いている中にも静かなる状態があると言えます。ただこの”静”という状態が単に心が落ち着いて冷静であるとかというだけでなく”整”という意味がある事に気付いたのです。

ではこの”整”とは何かと言うと身体全てが安定して整った状態の事です。全身各部が連動し協調して動ける状態です。
これまではこの”整”という状態があるから動けるのだと思っていましたがそれだけではなく動くから新たな”整”という状態が生じていっているのだという事に気付いたのです。もちろん”整”があるから動けるは事実でこのどちらも同時に生じつつあるのです。

例えば食べ物が消化・吸収され、不要な物が排泄されます。血液は循環し酸素や二酸化炭素は呼吸で体内を循環しています。これらは動の働きです。動の働きがあるから我々は”整”、即ち”生”なのです。
逆も然りで”整=生”であるから”動”(体内の循環)が起こるのです。このどちらもが同時に生じているわけです。
どちらが先でどちらが後ということはありません。

私達の細胞は日々生まれ変わり、変化しています。その変化が”生”=”生命”を生じさせ、”生”があるから変化を生じさせているのです。

しかし人は何かを認識しようとすると止まった状態でなければ認識できません。しかし世の中全てのものは止まっている(静)ようであっても変化している(動)のです。
その変化の中に身を置く事が”整”であり生きているということではないでしょうか?

2011年06月19日

ミツバチの贈り物
ここ数日は雨ばかりでさすがに梅雨という感じ。先日はこの梅雨の前にぜひともしておかなければならない採蜜をしてきました。
昨年のGWに実家の巣箱に入ったニホンミツバチが、徐々に巣を大きくし昨年秋には採ることが出来なかったハチミツを今年はようやく採ることができました。

まずは巣の入り口辺りに手をおいてじっとミツバチが乗ってくるのを待っていると何匹かのハチが興味を示して近寄ってきてはまたすぐに遠ざかるという動作を繰り返す。そのうち飛んできたもののうちに手に止まるものがでできて、これで準備完了。

ハチが十分になれたところでいよいよ巣を開ける作業へ。4段になった巣箱の一番上のカバーを外し少しづつ上蓋を歯の長いケーキナイフでゆっくりで切っていくと沢山のハチが出てくる出てくる。
ただ最初にちゃんと慣らしているので出てきても全く刺しません。
巣版を見てみるとちゃんと巣蓋がしてあり蜜がたっぷり溜まったいました。本来ならばここで巣箱をトントンと軽く叩いてハチに下の方に下がってもらわなければならないのですがうまくいかずそのまま4段目と3段目の間にナイフを入れて4段目を頂く事に。

ぎっしり蜜の詰まった箱はかなり重く沢山のハチもまだくっついてくるのでしばらく近くに置きながらハチが元の巣箱に戻るまで待っていると僕の足に何匹かのハチがしがみついているではありませんか!
それらのハチも全く刺すことはなく何ともけなげな奴に思えてきます。

ようやく全てのハチが元に戻ったところで蜜を家に持ち帰り容器に移し冷蔵庫へ。採れたての蜜をそのままにしておくとスムシに食べられてしまうので一度冷やす必要があるのです。

今回のハチミツは一番最初に採った蜜なので巣版が白くキレイでそのまま食べるのにもってこいの蜜。巣版が軟らかいのがニホンミツバチの特徴でこの巣版に抗菌成分や身体によいとされる成分が豊富に含まれているとの事。
ありがたく頂きました。

巣箱を設置しただけで全く世話をしていないのに4〜5kgものハチミツを頂けるなんてなんとハチというのはありがたい生き物なんでしょう!しかもちゃんと慣らせば刺したりせず手に乗ってくるというこれほど飼いやすいペットはいないと思います。
ミツバチに感謝です。

2011年06月30日

便利な生活のリスク
先日ニュースで被災地の瓦礫処理の問題をやっていました。とりあえず大量の瓦礫が一か所に集められてはいるものの、その処理には処分場が必要なのです。
その処分場を被災地に作ろうと言うのですが、被災者にとっては震災で大打撃を受けた上に更なる負担であり自ら住み慣れた土地を手放さなければならず、焼却によるダイオキシンなどの有害物質の発生は健康へも悪影響となる可能性があります。
その処分場建設の説明会をしていたのですが被災者の中には大反対しておられる方がいました。

確かに被災者にとっては二重苦にも三重苦にもなるでしょう。しかし現実問題として別の場所に処分場を建設すれば、その別の場所の住民の反対があるばかりでなく大量の瓦礫の輸送が必要になってきます。ただでさえ集めるのに莫大な費用と時間がかかっている時に、これ以上の負担は厳しい所です。

こういった現実的問題もそうなのですがもっと気になる点があります。それはこれらの瓦礫が自然分解されない有害物質であるという事です。
現在の我々の生活の中で自然に分解されるものはどれだけあるでしょうか?
雨・風・暑さや寒さから身を守ってくれる家は昔は木や土、石といった材料でしたが、今や人工的に作られた建材ばかりです。衣類や寝具にしても合成繊維がほとんどで、家の中にはテレビや冷蔵庫、エアコン、洗濯機、・・・多くの電化製品で溢れています。
外に出ても同じで、車やバイク、アスファルトの道路に信号、・・・。

どれだけ自分はエコの生活をしていると自負している人でもこれらを全く使用していない人などいないはずです。
つまり私達には必ずこれらに対するリスクといものが付きまとうのです。

人工物に囲まれた便利な生活というのは、常にこれら有害物質の処理というリスクを背負うという事なのです。
今回の場合、確かに被災者は震災による多大な被害を受けました。しかしこれまで行ってきた便利な生活のリスクの部分だけは負いたくないというのは人間のエゴではないでしょうか?
これは今回たまたま震災に合わなかった人も背負っているリスクなのです。

物事には様々な面が存在します。便利な生活の裏には危険が含まれている事を頭に置いておかなければならないと思います。

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